〝気立て〟という器、ルート(博士の愛した数式)

 日本の作家の中で特に好きな、小川洋子さん。この人の書く物語の素朴さ。
 不思議な世界が目の間に広がっていても、劇的な場面でも、ひどい苦渋に陥っても、余分な飾り気がない。読書という体験が日常にふんわりと重なり合ってくれる。そうして文字を読み進めていって得られる感動は、どんなに強いものでも自然に馴染んで、自身の色を変えていくような、もしくはいつの間にやらスプーンで何かをすくいとられてしまったような感覚。
 素晴らしい物語ばかりです!その中で、


博士の愛した数式

 息子と二人で暮らしながら、派遣された家政婦として働く主人公の女性が、次に行くことになったのは、交代した家政婦の数の多い手強そうな相手。訪ねていくと、
 「世話をしてほしいのは、ギテイです」
 と女性は裏庭の先の離れを指しました。
 そして説明を受けます。
 そこにいるギテイこと〝博士〟は記憶が不自由でした。17年前の事故によって、そこから記憶が80分しか持たないようになってしまいました。
 翌々日、初めての勤務日。みすぼらしいような離れで博士に出会います。博士は64歳の数論専門の元大学教師でした。そして80分しかもたない記憶を補うため、着ている背広のあちこちにクリップでメモを留めています。これをどう受け入れるか……と悩みながら博士の元で家政婦として働きはじめます。

 考え事に集中している時の博士はとても難しい人間になります。ある時は必要な質問を重ねただけで、
 「僕は今考えているんだ。考えているのを邪魔されるのは、首を絞められるより苦しいんだ」と大きな声で返されてしまいました。
 しかし博士の数学に対する無尽蔵とも思われる知識や、数式や数、数と数の関係性への思い入れを博士が話すと、その一つ一つにぬくもりが感じられて、豊かに、奥深く、数学という文学世界に導かれていきます。
 主人公の誕生日が2月20日と聞き、博士は自分の腕時計に刻まれた284という№を見せます。
 「220の約数の和は284。284の約数の和は220。友愛数だ。滅多に存在しない組合せだよ。フェルマーだってデカルトだって、一組ずつしか見つけられなかった。神の計らいを受けた絆で結ばれ合った数字なんだ。美しいと思わないかい?君の誕生日と、僕の手首に刻まれた数字が、これほど見事なチェーンでつながり合っているなんて」と口にしたり。

 そんなある日ひょんなことから10歳の息子がいることを話すと、博士は突然心配をあらわにして、
 「明日からは、息子をここへ連れて来るんだ」
 と言い張る。そのすごみに折れて息子が学校帰り、博士の家に来るようになりました。
 博士は息子の頭のてっぺんがルート記号(√)のように平らだったことから、
 「君はルートだよ。どんな数字でも嫌がらず自分の中にかくまってやる、実に寛大な記号、ルートだ」と呼んで、
 家政婦として勤務しながら、ときに三人での時間を過ごしていくのでした。


ルート(√)

 父は子供を身籠ったと時点で母の前から姿を消しました。生まれた時から父はなく、祖母と母の関係も良くなかったため、乳幼児の頃から保育所に預けられました。小学生に上がる直前、関係が断たれていた祖母からランドセルが送られてきたことで、祖母と母が和解したがすぐに祖母が他界。母が仕事で忙しかったので、鍵っことして寂しい時間もあっただろうに、ひねくることなく素直に、そしてとても優しい子どもとして育ちます。

 このルートの優しさが、全編を通しての重要な受け皿のようなものに感じられる。
 シングルマザーとして頑張る母は、家政婦という仕事柄、雇い主に辛い目にあわされることもあった。そんなときルートは母を繰り返し慰めた。時には母が噓泣きをしても、進んで騙されてあげたりもした。
 博士との付き合いも難しいものなはずなのに、博士の歓迎に、〝自ら帽子を脱ぎ、頭のてっぺんを自慢げにつき出し、自分がいかにルートにふさわしいかを示した〟と、この子供の優しさ、気立ての良さが終始変わらず物語のどこででもみることができる。


博士とルート

 記憶が80分しかもたない博士は、子どものこととなるととても強い関心を示す。家で一人は心配だ、と勤務中必ず連れて来るようにと約束させたり、あんなにも拒んだ考え事の最中でもルートが相手なら惜しみなく時間を差し出した。
 時にはルートの勉強に付き合い、小学生の算数の文章問題を一文ずつ読み解きながら、ルートの努力を誉め続ける。
 そしてルートは博士の導きによって正解までたどり着いたとき、 〝博士はルートの頭を撫で、ルートは髪をくしゃくしゃにされながら、喜ぶ顔を見逃がしたくないとでもいうように、繰り返し博士の顔を見上げた〟と、
 博士にとって子供というのは、それだけで愛されるべき存在だった。そしてルートはその愛情に対して撞かれた鐘のように、優しさを響かせる。

 母が用事で買い物に出るときに、「大丈夫かしら」と博士と二人きりになる息子を心配する場面がある。ルートは「平気、平気」と博士に宿題を見てもらうことにした。
 そして事故が起きる。
 しかしなんでもなく、リンゴを切ろうとしたルートが手を切ってしまった、それが思いのほか深く血が止まらない、というものだった。博士は激しく取り乱した。そして〝博士はリンゴを食べたがったのは自分の方であると主張し、反対にルートは自分が勝手にやったのだと言った〟
 結局は病院に連れていき、傷口は縫うほどではあったもののルートはことさら元気な様子を見せました。

 しかし家に帰ったルートは突然不機嫌になり、母に対してとても冷めた反応を示す。何を聞いても返事は頑ななモノでした。腹を立て怪我をした手を机に打ち付け、ルートは涙を流しました。なんでそんなに機嫌が悪いのかと母が聞くと、ルートは涙を流して、
 「ママが博士を信用しなかったからだよ。博士に僕の世話は任せられないんじゃないかって、少しでも疑ったことが許せないんだ」と話しました。

 母の心配はもっともです。きっともっと危険なことが起きていても博士は何もできずに混乱するだけだったかもしれません。しかしルートの優しさはそれとは関係なく、尊重されるべきものです。
 博士の子供に対する愛情は時には余りあるものだったりもします。自分の子供の頃だったらこんなに素直に受け取り切れないだろうなと思っても、それをちゃんと受けきるだけ気立ての良さがルートにはあります。物語はその後も、博士とルートの共通の話題であるタイガースなんかも絡めながら、記憶について切なげな感じもありつつ、愛情深いやり取りが続きます。もちろん母も交えて。 


余談

 小川洋子さんの本は本当に読みやすい。加えて想像力を優しく刺激して。すっかり不思議な世界に迷わせてくれたりするので、とても楽しい。
 あるとき神戸の喫茶店にふらり入ると、たくさんのサインが書かれた壁があった。その中に〝小川洋子〟という名前がっ!全身がくわっ開いた感覚でした。コーヒーもとてもおいしかった。

おわり

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