こころ
文学の世界でこれまで長く、そしてこれからもずっと揺るぎない存在感が確かである作品。広く知られた話で、教科書に入っていたと思います。
あまりにも有名で解説やらなんやらともう数限りなくありますし、それが目に入ると〝ほぇ~〟といちいち感嘆する私です。近代から現代への移り変わりだとか、天皇崩御と乃木希典の話とかも興味深い事であります。文学世界での位置づけとしてとても重要なものと思います。
しかし今回はそこではなく、友人Kというキャラクターについて。
彼は友人に裏切られるは、想い人をかすめ取られるはで自殺した可哀そうな人、と思われてばかり。でも私はそうは考えないっ!という話。
Kと自殺
語り手から先生と呼ばれる物語の中心の人物、その友人だったのがK。
Kは先生から「普通の坊さんよりはるかに坊さんらしい性格」とみられ、よく〝精進〟という言葉を使っていた。
Kは「意志の力を養って強い人になるのが自分の考だと云うのです。それにはなるべく窮屈な境遇にいなくてはならない」と結論していましたが、先生はむしろ神経衰弱じゃなかろうかと、自分が住む下宿にKを住まわせます。
そして心配から「奥さんと御嬢さんに、なるべくKと話しをする様に頼みました」が、 「Kはあんな無駄話をして何処が面白いと云うのです」と、先生を軽蔑する。
そして「精神的に向上心がないものは馬鹿だ」ともいいます。
先生が〝人間らしい〟という言葉を使うと、その言葉に
「自分の弱点の凡てを隠していると云うのです」
Kの目指す〝強い人〟は苦しみながらも、そう振る舞わない努力を続けるのだと考えます。
そんなKが段々と心をほぐしていったのが同じ家に住むお嬢さんでした。きっと先生が心配したように神経衰弱で一方向のみを見つめていたKの心に、余裕が生まれ恋愛をする隙間ができたのでしょう。しかしKはそれはそれで思いつめてしまい、先生に「御嬢さんに対する切ない恋」を打ち明けます。
そして先生は「恋愛の淵に陥った彼(K)を、どんな眼で私が眺めるか」
「私の批判を求めたい様」を見てとった。
しかしお嬢さんをKにとられたくなかった先生は、
「『精神的に向上心のないものは馬鹿だ』と云い放ちました」
Kは前に自分が発したセリフに衝撃を受けた。しばし絶句から抜け出せずにいたあと、 「『僕は馬鹿だ』」そして
「『もうその話は止めよう』」という。しかし先生は
「ただ口の先で止めたって仕方があるまい。君の心でそれを止めるだけの覚悟がなければ」と畳みかける。
「『覚悟、――覚悟ならない事もない』」
このやり取りの後に先生は急ぎ奥さんにお嬢さんとの結婚の承諾を得る。
しかしこれをKに伝えられずにいたが、図らずも奥さんのほうからそれが伝わってしまう。
そしてKは自殺する。遺書には
「自分は意志弱行で到底行先の望みがないから、自殺する」と書かれ、また最後には、
「もっと早く死ぬべきだのに何故今まで生きていたのだろうという意味の文句」も書かれていた。
一点突破
この話、先生とってはKに対する裏切りだったのだろうと思う。Kが友人である先生に恋を打ち明けた時、先生は我執にとらわれ、卑怯にも騙し討ちをしたかもしれない。しかしKにとってそれは騙されたものだっただろうかと私は思う。
Kは坊さんよりも坊さんらしく、理想に向かって生きてきた。その理想は高尚で簡単なものではない。
Kは苦しみながら、自分の愚かさにも向き合って生きていた。
そんなKをただの裏切られた可哀そうなだけの人間として見ることができない。
むしろここで行われた自殺は先生のように我執にとらわれないための唯一の方法ではなかったかと思う。
Kは自らの理想の為に死んだ。
Kの覚悟がどのようなものだったかは語られないが、もしも彼をただの可哀そうな人間としてしまうと、その時の覚悟すらも軽んじることになってしまうと思う。
Kは覚悟について強い言いきった話し方はしなかったけれど、三島由紀夫もこんなふうに話す。
〝ふだんから、「おれは覚悟がある」と言つてたつてだめだよ。最後の五秒か十秒の間に勝負がきまる。〟
〝ふだんから覚悟があるつて言つてゐるのは、ちよつとにせものくさい。〟
生き方よりも死に方こそが何かを証明することがある。実際三島由紀夫は自身その最後を自決で終わらせている。
Kの自殺はただ不幸だった死ではなく、理想の追求の為に選択された彼の意志の力なのだと私は思っている。
余談
日本文学って面白い。(海外文学も好き)
おわり
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